この記事を書いたライター
菊地 雅洋
北海道介護福祉道場・あかい花の代表。北星学園大学文学部社会福祉学科卒業後は、福祉の仕事に携わり、特別養護老人ホームの施設長も経験した。現在は、社会福祉士や介護支援専門員の資格を活かし、著書の出版や講演などで全国を飛び回る。趣味は野球で、好きな球団は日本ハムファイターズ。
masaの介護福祉情報裏板
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暮らしの場を看取りの場に
多死社会を迎えているわが国では、2040年には47万人の看取り難民が生ずる恐れがあると言われている。
ここで考えなければならないことは、看取り難民とはどういう状態を指すのかということだ。
人は必ず死ぬし、どこでも死ぬことができる。
そうであればどこで、どんな状態で死を迎えようと構わないのではないかという考え方がある。
しかし人の死に方は様々であるが、人は死ぬ瞬間まで生きるのである。
そうであるからこそ、尊厳を持った一人の人間としての生き方が死の瞬間まで保障されることが大事になる。
死の瞬間をどこで、どのように迎えるかということは、最期までどのように生きるのかという命題につながってくるだろうし、安らかに最期の瞬間を迎えることができるかどうかにもかかわってくる問題である。
そう考えると看取り難民とは、死の瞬間を本人が望む状態で迎えられない人のことをいうのではないかと思う。
その中には、生から死につながる過程で、必要な介護を受けられずに苦痛と悲嘆の中で死んでいく状態も含まれてくる。
そのような死に方が、「仕方ない」とされる社会は寒々しく恐ろしい。
そうした社会にしないために求められてくるのが、「看取り介護」である。
それは、誰かが自分らしく最期の瞬間まで生きることを支える支援なのである。
そのため来年4月の介護報酬改定の論点の一つとして、「人生の最終段階においても本人の意思に沿ったケアが行われることができるようにしなければならない」という考え方が示されている。
そして訪問介護への看取り介護加算の新設などが検討されるなど、死ぬためだけに居所を変える必要がないように、暮らしの場所で看取り介護が実践されるような地域社会づくりが求められ、その構築が進められているのである。
日常介護の延長線上にある看取り介護
看取り介護とは、病状等が回復不能な状態で、かつ延命治療を行わずに概ね半年以内に死を迎えると予測される人に対して行われる介護を意味している。
そこで求められるのは、死期が迫ってくるという不安を抱える人の心の支えとなるともに、苦痛を取り除くための医療サービスを適切に結び付けながら、不必要な延命治療は行わずに、日常生活上の不便をできるだけなくするように介護支援を行うことである。
そこで必要不可欠なことは、安心と安楽のうちに最期の瞬間を迎える過程を支えることである。
だからと言って看取り介護は特別な介護ではない。
日常介護以上の高度な介護技術が求められるものでもない。
看取り介護とは、命の期限が明らかになっている人に対して行われるケアであるとしても、日常の支援と分断した場所で、日常支援とは異なる方法で行われるものではなく、過去の暮らしや方法論と繋がっているものである。
対象者が暮らす環境を整え、身体を清潔に保つなどの日常生活上及び療養上の世話をする行為に変わりはなく、基本的な介護知識と技術に基づいて提供される介護である。
そもそも日常的な介護が貧困な場所で、看取り介護の際のQOLだけが高まるわけがないのでだから、日常介護の品質を向上させることが、看取り介護の品質の向上にもつながっていくのだ。
このように看取り介護は日常ケアの延長線上にあるもので、看取り介護ができないということになれば、それは即ち介護ができないという意味になり、そんな介護事業者があってはならないのである。
そういう意味では看取り介護とは、事業管理者等が、「する・しない」とか「できる・できない」と判断する問題ではなく、高齢者の日常ケアのたどり着く先は、必然的にその人の終末期支援であるという意識のもとに、いつでもどこであっても提供しなければならないケアサービスなのである。
求められる専門知識
そうであれば当然、介護事業者に勤める職員は、事業種別に関わらず、すべからく看取り介護のスキルが求められることになる。
終末期を迎えた人の身体状況の変化などの知識が求められ、それを身に着けるための教育も正しく行われる必要がある。
例えば死を目前にした人に起こる状態として、死前喘鳴(デスラッセル)やチェーンストークス呼吸、下顎呼吸などがあるが、それは決して看取り介護対象者が苦しんでいる状態ではないことを理解し、原因や対処法をあらかじめ知っておく必要がある。
そのようなことを知らずして看取り介護に携わった場合、そうした現象が起きたときに対応する職員が慌てふためくことになるかもしれない。
それでは困るわけである。
なぜなら職員が慌てふためく状態は、看取り介護対象者やその家族に不安しか与えないからだ。
だからこそそうした知識を得るための学びは必要不可欠であるが、それは看取り介護教育ではなく、介護教育であることも理解せねばならない。
命のバトンリレー
看取り介護では、対象者の死期がある程度予測されているからこそできることがある。
それは旅立ちの瞬間までの間に、この世で縁を結んだ人たちとエピソードを刻みながら、別れを意識した時間を過ごすことである。
このことを僕は命のバトンリレーと呼んでいる。
1月を超える長期間施設に泊まり込んで母親を看取ったことにより、この世に生んでくれた恩の何パーセントかを返せたと、涙の中にも清々しい表情を見せてくれた人がいた。
体調が思わしくなく、夫の最期の瞬間に付き添うことができなかった妻は、最期を看取った介護職員から、その時の様子を繰り返し聞いて、苦しむことなく眠るように旅立っていったことを何度も確認し、そしてお通夜の席では親せきに繰り返しそのことを話していた。
どちらのケースも命のバトンリレーがなされたのではないだろうか。
そうした場面を支援できる介護という職業に、僕たちは使命感を持つと同時に、そのことに誇り感じてもよいのではないだろうか。
偽物の看取り介護をなくすために
しかし看取り介護とは何かという本質を理解していない場所では、看取り介護を行っていると言いながら、終末期判定があいまいで余命診断もしない状態で、「看取り介護対象者」だと決めつけているところがある。
それは、「未必の故意による死への誘導」ではないだろうか?
夜間の見回りと見回りの間に息が止まっている人もいる。
それは、「孤独死」ではないのだろうか?
看取り介護だからと言って、密室の中で日中でも部屋を真っ暗にして放置されている人もいる。
それは、「見捨て死」ではないのだろうか?
看取り介護加算が算定できたとしても、そのような方法を看取り介護と称している場所では、対応する職員は自分の仕事ぶりに使命も誇りも感じられないのではないだろうか。
看取り介護とは、そんなあいまいで、寂しくて暗いものではない。
もっと温かくて感動的な時間と空間を創り出すことが看取り介護だ。
誰かの命が燃え尽きることが予測できる時期に、燃え尽きる瞬間まで、人が人と繋がり生まれるエピソードの中で、命のバトンをつないでいくお手伝いをすることなのである。
求められる人生会議(ACP)の視点
看取り介護の方法論を考えるにあたっては、終末期にどのような支援が必要かを考えるだけでは不十分であり、事前にその意志を確かめておく必要がある。
できれば自分が終末期になった場合に、どこでどのように過ごしたいのかということを、愛する誰かに対して、あらかじめ表明しておきたいものだ。
そうした思いを家族間でごく当たり前に確認し合える社会となることで、愛する誰かの希望を確認したうえで、その希望に沿った支援を行うことが可能になるのだ。
今わが国では国民の8割以上の人が医療機関で亡くなっているが、様々な調査で、「最期の時間をどこで過ごしたいですか?」とアンケートをとっても、8割以上の人が医療機関で最期の時間を過ごしたいと答えている調査結果は見たことがない。
それらの調査では、過半数の人が最期の時間を過ごしたい場所として、自宅もしくは今現在過ごしていた場所と回答している。
そうであるにも関わらず、8割を超える人が医療機関で死を迎えているという意味は、「自分が死にたい場所で親を死なせていない」という意味でもある。
その理由は、世間体とか家族の思いとか様々な理由があろうが、一番多い理由は、子が親に、「どこでどのように最期の時間を過ごしたいのか=どこで死にたいのか」ということを確認していないということだろう。
例えば口からものを食べられなくなっても、経管栄養を行うことで延命は可能であるために、経管栄養のみで10年以上生きている方も世の中にはたくさんおられる。
その人たちの中には、意思疎通がほとんどできず、気管切開されて定時に気管チューブからの各痰吸引が必要な人も多い。その人たちの多くが、各痰吸引の度に体を震わせてもがき苦しんでいる。
その姿はまるで苦しむために生かされているかのようだ。
しかしその中には自分の意志ではなく、他人の意志によって経管栄養で生かされている人が多数含まれている。
というより大多数の方々が、自分の意志ではなく家族の意志によってそのような状況に置かれているのである。
その人たちは果たして幸せなのだろうか?
それでよいと思っているのだろうか?
こんなことならもっと早く天に召されたいと思っているのではないだろうか?
そんなことを思うにつれ、もっと本人の意思が尊重される終末期の過ごし方が保障されるような社会になっていく必要があるのではないだろうかと考えてしまう。
だからこそ意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくという人生会議(アドバンス・ケア・プランニング= ACP)の重要性が増すわけである。
リビングウイルを支える役割り
老衰などの自然死を迎える人については、支援対象者の病状が重篤化する前から関わっている介護関係者が、人生会議の視点から、リビングウイルの支援に関わっていくことが求められるのだ。
リビングウイルとは、「生前意思」又は「いのちの遺言状」と言われるものである。
具体的にはエンディングノートの中に、「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し記しておくことが、「リビングウイルの宣言」となるのだ。
それは延命治療を控えてもらうのと同時に、苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてもらうための宣言でもある。
その内容の中には、自分が口から食物が摂れなくなった時にそうしたいのかという宣言があっても良い。
というより当然そのことも含んで書き残しておくことが大事だ。
口からものを摂れなくなった際に、経管栄養で延命措置を図ってほしいのか、そうしないで自然のままに逝かせてほしいのかを宣言しておくことは、自分がいざそうなった際に、自分の意思確認ができないまま、配偶者や子供がその重たい決定を行わなければならないという十字架を背負わせないためにも必要なことだと思う。
終活が求められる超高齢社会
そうした人生会議というプロセスを経たうえで、リビングウイルの宣言を含めた、「終活」を行って最期の時に備えたいものだ。
しかし終活も元気なうちにしかできない。
終活とは、死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備のことであり、「これまでの人生を振り返る」・「残される家族のことを考える」・「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」・「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことで、これから先にできること・できないことの整理につながる活動だ。
終活によって、自分が人生の最期をどこでどのように過ごしたいのかを、一番信頼できる人に伝え、託すことができる。
そういう意味では終活とは、自分らしい最期を生きるための準備であると言える。
「生きる」を支え、愛を贈る看取り介護
そうした人生会議・リビングウイル・終活という意識が国民の間に広がってほしい。
介護の専門家が看取り介護の方法論をいくら考えて、その質を引き上げたとしても、終末期を過ごす人の思いに寄り添うことができない限り、それは真に求められる方法論とはならない。
看取り介護では、看取る人の思いも大切だが、それ以上に逝く人の思いがとても重要になると思うからだ。
それは大切な誰かの最期の時間に、僕たちやあなた方の、「愛」を届けるために必要不可欠なことではないかと思うのである。