介護サービス計画書、ケアプランには「利用者及び家族の生活に対する意向」という項目が最初に掲げられています。
当然と言えば当然。
これ抜きに私たちが様々な事を企てても、肝心のご本人やご家族と全く違う方向性のプランだったら話になりません。
実際、ご本人に意向・希望をお聞きすると「歩けるようになりたい」とか「元気になって家に帰りたい」という趣旨のものが圧倒的に多いです。
一方でご家族の意向はというと、必ずしも本人の思いと合致していません。
「このまま施設に入所させてほしい」「自宅へ帰って来られても面倒見ることができない」というものが大多数です。
施設から在宅へ戻る「在宅復帰」は大袈裟に言えば家族の生活を大きく揺るがすことになりかねない非常にデリケートな項目を含んでいます。
その為、第三者である私たちは迂闊に行動できない領域でもあります。
今回、私がご紹介するのは、「お年寄りとゆったりと海釣り外出」というエピソードです。
漁の仕事をされていた入所者を海に連れ出して分かったこと。
そこには、ご本人の想いや家族の存在になかなか気づくことができない介護職員の姿がありました。
この記事を書いたライター
広大寺 源太 / こうだいじ げんた / KODAIJI GENTA
介護現場での体験をもとに、その時感じたことを面白おかしく4コマ漫画やイラストで表現しています。
介護に携わっておられる方々を「笑わせたい!」「喜ばせたい!」と何故か使命を感じながら、ブログ『介護歌留多 頑張ろう介護職』にて4コマ漫画を公開中です。
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Hさんと海釣り外出
私の勤務している介護老人保健施設に入所されたHさんは海沿いの隣町でずっと漁師をされていた70歳代の男性です。
脳梗塞で右麻痺となり、言葉が不自由で車椅子操作もままなりません。
総合病院で急性期の治療を終えるのですが、自宅の介護は難しいということで施設に入所されました。
威勢の良いさっぱりとした性格の奥さん(同じく70代)との二人暮らし。
奥さんは「自宅での介護はとても無理だから施設で面倒をみてもらってありがたい」と入所できたことに安堵されておられました。
入所後
Hさんは行動的で、日中ベッド上で過ごされることはほとんどありませんでした。
慣れない車椅子を、なんとか自分で操作しようと一生懸命です。
平屋の施設なので、廊下をつたって車椅子であちらこちらへ移動されます。
そして、どこかの壁際に引っかかって動けなくなっているという光景が多くみられました。
そんな時に「Hさん」と声をかけるといつもトイレへ行きたいと仰るのでした。
「Hさん、ここの生活は慣れましたか?」
「ここにいても面白くねぇーな」
「トイレ連れてってくれ…」
「さっき行ったばかりでしょ」
「なんにも面白くねぇーな」
表情はさえません。
私たちは、なんとか変化を引き出そうとHさんに関わります。
そんななか、海に外出してみたらどうか…という話が出てきました。
「海を見に行きたがっている」「海で釣りをしたいようだ」とのこと。
今考えると「職業が漁師」だから「海で釣り」という短絡的な発想が根本にあったのかもしれません。
でも、たしかに言葉が不自由ながらも、海や魚のことを話題にすると得意げに教えて下さいました。
この時期は港でどんな魚が釣れるとか、仕掛けはこうだ…など、熱心に話してくださったのです。
そこで、私が海釣りにお誘いすると、「オレが釣り方を教えてやる」と前向きな答えが返ってきました。
いざ海釣り
この頃、専門学校の学生二名が介護実習に来ていました。
たまたま、そのうちの一人がHさんの担当をしていたので、私は二名の実習生を引き連れHさんと海へ出かけることにしました。
こういった外出の場合、当然、ご家族に連絡をとって了解を得る必要があります。
奥さんが納得されるか少し不安だったのですが、電話してみました。
「ダメダメ、そんなことしなくてもいい」
「あの人の言う事なんて無視してくれ!」
「我がままばかり言って!」
やはり否定的な返答でした。
しかし、「外出はHさんの気分転換にもなりますし、むしろ私が楽しみなのです」「釣り方を教えてもらいたいのです」とお願いすると、
「しょうがないな…面倒をかけるけど頼むわ」
「連れて行って言うことを聞かなかったら叱ってやってくれ!」
…という言葉を引き出すことができました。
私は、Hさん一人では竿を操ることは出来ないだろうと、二人分の釣り竿とサビキ仕掛けを揃えました。
港では小さなアジが釣れているという情報がありました。
私たちはクーラーボックスに氷を摘め、大漁を誓い施設を出発したのです。
海釣り断念
片道30分、防波堤に囲まれた港に到着しました。早速、Hさんは喜んで釣りをされるかと思いきや…
「オレは釣りなんかしてられねぇ」
「家に帰らなきゃいけねぇ」
と言い出します。
「えーっ!」
「まあまあ、そんなことは言わず」
「せっかく、ここまで来たのですから…」
私たちはHさんに竿を持たせて、釣りを勧めてみましたが全くノってきてくれません。
竿を持つのも嫌がりHさんは「家に帰る」「家に帰る」の一点張りです。
なだめる私たちに、ついに怒り出すHさん。
「ゆったりと海釣り…」とてもそんな雰囲気ではありません。私たちは根負けしてしまいました。
そしてとうとう、本当に仕方なく、計画を大幅変更して急遽Hさんの自宅へ向かうことになったのです。
「でもどうしよう…」
「いきなり自宅へ行って良いものなのか」
「良いわけないよなぁ」
「奥さん、驚くだろうなあ」
不安がよぎります。
大体の住所は分かるので、そこからHさんの案内で車をすすめ、なんとか自宅を発見しました。
自宅は神社の大門に面しています。
ハイエースのリフトバスでは入れないため、離れた大通りに停め、そこから車いすで未舗装の道を押して行きます。
幸運にも実習生は力のある二人の男子学生なので、前輪を上げて車椅子を進めます。
そして家の近くまで行くと、たまたま玄関の前に立っていた奥さんが見えました。
こちらに気付かれた様子です。
やはり奥様怒る
「やらてー」
「なぁーしにきたがて」
「また、わがま言ったがろ」
(※方言)
「嫌だ」「何をするためにきたの?」「我がままを言って連れてきてもらったんだろう」
予想はしていたもののストレートなキツい口調で、いきなり家に帰って来たHさんを叱りつけます。
やはり、やめておけばよかった…
でも、今回はHさんも負けずに言い返します。
聞き取れない言葉ですが、普段のHさんからは想像もできない勢いです。
玄関前での激しいやり取りが終わり、狭い入口からなんとか車椅子で家に入ると、奥さんを無視してHさんは居間の方を指さして私たちに何かを訴えました。
不自由な聞き取れない言葉で私たちに指示を出します。それは…
「あそこにベッドを置く」
「あの場所に介護用のベッドを置くスペースはあるか?」
という内容。
Hさんの意図はすぐに理解できました。
Hさんは自ら自宅で生活するための環境を整えようと準備に来られたのです。
在宅の壁
介護老人保健施設はリハビリや機能訓練を行い在宅復帰を目指す施設なのですが、なかなかその目標を達成することは難しいです。
結局、自宅に帰れず他の施設に入所されたり、具合が悪くなり再び入院されたりする方も多くおられます。
Hさんの場合もご家族である奥さんは高齢で自分のこともままならないため、このまま施設で暮らして欲しいという意向でした。
また、私たちも在宅での生活は困難だろうと思っておりました。
ですから、老人ホームにずっと入所しているはずの夫がいきなり自宅に帰ってきて、突然「居間にベッドを置く」と言われた奥さんはさぞかし驚かれたことでしょう。
予想もしない在宅生活に向けての準備を始めたのですから。
“自宅へ夫が戻って来る”…ということを察した奥さんは
「何言ってるが」
「そんげんことダメらこって」
(※方言)
「何を言っているのよ」「そんなことは無理よ」
と再び怒ります。
でも、ここでもHさんは負けずに、聞き取れない言葉で言い返します。
大工さん来る
言われたら言い返すという二人の攻防の合間で、私がどちらへともなく謝罪するような場面が続きましたが、結局Hさんの「ベッドを居間に置く」という力が奥さんを押し切りました。
そして、車椅子を利用して自宅で過ごすためにはトイレの改修も必要だとのことで、今すぐに馴染の大工を呼ぶことになったのです。
魚釣りからの急展開ですが、考えてみれば当然のことかもしれません。
釣りなんてどうでもいいことだったのです。
現役漁師として働いていて病気で片麻痺になって療養。
訳の分からないまま介護老人保健施設に入所させられ、このまま自宅に帰ることができないかもしれないという不安。
そのような状態で今一番やりたいこと…それは「魚釣り…」ではありませんよね。
釣りなんかより、急いでやらなきゃいけないことが沢山あったのです。
しばらくすると大工のおやじさんが来て、不機嫌でキツイ口調の奥さんとやり取りしながら、居間やトイレの幅を測って行かれました。
ひと段落すると、Hさんは私に「改修が終わり次第家に帰るつもりだから、事務所の職員や支援相談員にこの計画を伝えてくれ」という主旨の言葉を発し「よし、今日は帰るぞ」と満足そうな表情をされました。
一方の私は、怒りのピークは過ぎたものの、不機嫌な奥さんに何度も何度も謝罪してHさんの自宅を後にしました。
その後
その後、すんなり「Hさんは自宅に戻られ生活されたのです」となれば、最高のサクセスストリーになるのでしょうが…そんなに上手くはいきません。
でも、これがきっかけで支援相談員から在宅復帰の可能性について奥さんに話を出してみるなど、在宅の可能性も視野に入れた話ができるようになりました。
そして別居している息子さんたちの協力を得て、まずは一泊二日、自宅に泊まってくるという試みが始まったのです。
それからというもの、Hさん、自宅にお連れした私を少しは信頼して下さったのでしょうか、施設の廊下で頻繁に声をかけて下さるようになりました。
相変わらず、よく聞き取れない言葉で
「また、釣りに連れてってくれ」
(おわり)
介護いろは歌留多
家で歩けば坊に当たる
【読み】いえであるけばぼうにあたる
【意味】 自宅での歩行訓練は施設や病院のリハビリ設備の整った環境とは違う。施設で可能だった歩行やトイレ移動も在宅だと困難な場合も見受けられるので注意が必要という意味。でも、ひ孫の顔が見ることができるので本人にとって張り合いになる。思いがけないプラスの効果もみられる。
犬も歩けば棒に当たる
【読み】 いぬもあるけばぼうにあたる
【意味】 どんな物事でも出過ぎると思わぬ災難にあってしまうので注意が必要と言う意味。また、現状に閉じこもっていないで、新しいことに一歩踏み出せば、思いがけない成功をつかむことができるという意味でもある。
以上